富山湾沿岸の伏木は、奈良の都(平城京)が栄えていた頃、越中国の国府が
あり、大伴家持が天平18年(746年)に越中国の国守として着任して5年間伏木
で過ごしています。越中国府から平城京への海路での所要日数は約27日であ
り、伏木は港町として栄えていました。さらに、江戸時代になると不定期の
廻船「北前船」による交易が盛んになり、寛文3年(1663年)に伏木港は江戸
幕府により全国の船政所13港の一つとして指定され、伏木の北前船は加賀藩
の経済の一翼を担う富をもたらしました。この様に、沿岸に港を築いて経済
活動が盛んになると、必然的に問題となってくるのが波浪災害です。
元治元年(1864年) 、北前船を所有して廻船問屋「能登屋」を営んでいた
藤井家が、波によって破壊された防波堤の修復費用を加賀藩に申請した公文
書の中に、はじめて「寄廻り高波」という名称ができてきます。この古文書
から、富山沿岸の人々は、富山湾沿岸に押し寄せて災害をもたらすうねり性
波浪を「寄廻り高波」と呼んでいたこと、そして、昔から波浪災害に苦しめ
られていたことが分かります。
この名称の由来については、諸説存在しますが、私は「寄廻り高波」は、
'波が海岸に近づくにつれて、波向が変化し、波高が高くなる波'
を意味しており、沿岸域におけるうねり性波浪の性質をそのまま名称にした
と考えています。正弦波のような規則波の性質は、19世紀に広く研究され
1879年にHORACE LAMBによってまとめられ出版されてましたが、波がその波向
を変えるという記述はでてきません。つまり、この名称から富山湾沿岸では
世界に先駆けて波の観測が行われ、1864年にはうねり性波浪の沿岸域における
性質が富山湾沿岸の人々によって既に広く認識されていたことが分かる。
富山商船高等専門学校は、毎年のように富山湾沿岸で波浪災害が発生して
いた1967年に現在の地(射水市海老江)で開校され、この学校の教員として
赴任した吉田清三氏や石森繁樹氏が波浪災害を防止するために、富山湾に
おけるうねり性波浪「寄り回り波」の研究に取り組みました。1981年10月
から1982年4月にかけて、富山県内の関係者(伏木海上保安部、富山地方気象台、
中部日本海海難防止協会等)が試験的に観測に基づく寄り回り波の予測情報を
出すことを試みました。残念ながら、この取り組みは波の目視観測に頼って
いたためにうまくいきませんでしたが、伏木海上保安部長は寄り回り波予測
情報の提供にあたり、波浪自動観測システムの重要性に言及しており、その後、
1990年頃に運輸省港湾局(国土交通省港湾局)によって、リアルタイム波浪自動
観測システムが開発され、
沿岸波浪自動観測システム、正式には全国港湾海洋波浪情報網
(NOWPHAS:Nationwide Ocean Wave information network for Ports and HArbourS)
と呼ばれるシステムが作られます。この沿岸波浪の自動観測システムは社会的
にも高く評価され、平成9年度土木学会技術開発賞を受賞しています。
私は、大学の恩師である井上篤次郎先生(2019年11月29日逝去)から富山商船
高等専門学校で寄り回り波の研究をするように言われて、1983年4月に富山に赴任
しました。この時、富山商船高等専門学校では寄り回り波研究の第一人者であった
吉田清三氏(2010年12月逝去)や石森繁樹氏によって寄り回り波の研究が行われてお
り、吉田氏は航空機から観測を行い、1981年に寄り回り波が押し寄せている沿岸で、
沖合へ向かう寄り回り波よりも波長の長い長周期波が沿岸域に存在していることを
発見した。また、石森氏は1993年に人工衛星に搭載された合成開口レーダで観測を
行い寄り回り波が北東と北北東の2方向から富山湾に侵入していることを発見しま
した。しかし、寄り回り波侵入中に、沿岸域に沖合へ向かう長周期波が存在する
原因、寄り回り波が北東から富山湾へ浸入する原因、約30分周期で大きい寄り回り
波が押し寄せる原因についてはよく分かりませんでした。
その後、造波水槽を用いた実験により、沖合へ向かう長周期波は、寄り回り波の
侵入により駆動された浅瀬域における固有振動であること、寄り回り波が北東から
侵入することについては、超音波ドップラー多層流向流速計(ADCP:Acoustic
Doppler Current Profiler)を用いた対馬海流の観測により、能登半島から佐渡島
の海域において北からの寄り回り波が、対馬海流の影響で右へ約30゚波向を変えて
北東方向から侵入していること、約30分周期で大きい寄り回り波が押し寄せる
原因については、沿岸域に存在する約30分周期の長周期波による寄り回り波の
ビート現象であることが明らかになってきました。
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