歴史探検「下山田村道と増山城跡」
1.    日時:2025年11月01日(土) 14時30分〜16時00分
2.集合場所:河合雅司宅(富山県高岡市下山田228,090-2030-8012)
3.  参加者:富山湾を愛する会の会員6名と河合雅司
4.行程
    14:30  河合雅司宅集合
  14:35  下山田村道起点(河合孫兵衛宅跡),下山田村は孫次山砦の城下町
   14:55  亀山城の城下町跡,蛤坂,亀山不動尊,亀山城跡
   15:20  七曲り(城下町と増山城主郭を結ぶ道)
           増山城城下町跡(土塁跡・妙蓮寺塚)
   15:30  増山城陣屋・増山城主郭  
   16:00  河合雅司宅着

☆下山田村の歴史
  戦国時代、神保氏が増山城主であった頃、下山田は下和田と呼ばれ上和田、中和田とともに
増山城の城下町(孫次山砦の城下町)であった。増山城をめぐり戦が繰り返され、神保氏は敵に
包囲されると籠城して戦った。下山田の向山の神来嶋というところの山腹から清水が湧き出て
おり、この水を増山城へ供給する秘密の給水路があり、上杉軍に和田川の水を止められても
落城しなかったが、婆々谷の老尼がその秘密を上杉謙信側にもらしたため落城したと伝えられ
る。しかし、現在の所、この給水路は不明である。
 増山城の城主は、神保氏、上杉氏、佐々氏、前田氏と変遷し、下山田村の名称が文献で確認
できるのは慶長7年(1602年)に記された前田利長の印書からである。下山田村中興の祖は幼名
を小八郎といい、後に河合孫兵衛を名乗った。小八郎の母は下級武士であった河合図書の娘
(名は不明)で、1594年頃に利長の居城(守山城)で利常の乳母を務めた。慶長5年(1600年)に、
利長から小八郎を家来にする旨の申し出があったが、これを辞退し下山田村の山(山銭300文)
を拝領し、慶長7年(1602年)に印書(花押付き)を頂いた。慶長9年(1604年)より拝領山の税金と
して山銭700文を毎年収めたい旨を申し出て、これが承認され印書を頂いた。これらの印書に
は「下山田村小八郎」と書かれている。この後、小八郎と母親は度々守山城を訪ねて、年賀の
御礼等も勤めるようになり、芳春院(利家の正室、名は'まつ')から銅鏡を拝領している。
  小八郎(河合孫兵衛)は増山城「葵の門」の管理をしていた。河合孫兵衛家から向山の峰まで
下山田村道が通っており、増山城孫次山砦へ向かう途中に城門跡が残っている。「葵の門」が
あった場所は不明だが、ここにあった可能性がある。下山田村は、小八郎の時代(前田利家の
次女・簫姫[しょうひめ:瑞雲院]が増山城に居城した江戸時代初期)に増山城(孫次山砦)の城下
町として栄えた。そして、増山城は慶長20年6月(1615年8月7日)に江戸幕府の一国一城令により
廃城となったと考えられており、2009年7月23日に国の史跡に指定され、2017年4月6日に続日本
100名城(135番)に選定された。

<参考文献> 
(1)先祖由緒一類附帳(明治3年), 河合平三著
(2)下山田村誌(平成3年), 編集者:大木和平, 発行者:河合吉信
(3)増山城跡総合調査報告書 本文編・付図編(平成20年), 
  編集・発行:砺波市教育委員会

写真 増山城跡冠木門で記念撮影(2025年11月1日)